ゆりかごから脳死まで(仮)

u18は素で間違えた(低学歴)

日記 い

教師の飲み会は地獄。
教師になる人は基本喋りたがりだから延々としゃべってる

その隅っこでせっせと肉を焼く俺。

良い焼き色になった途端にかっさらわれていく肉。

これが社会の縮図か。


「自己主張しないよね」どこに入れる余地があったんだ

「若い者はもっと食え」あなたが異常なだけです


あと素面の時に飲み会の話題を持ち出すのはNG

堂々巡り

とてつもない自分語り日記。

自己肯定感や自己効力感が低いと言われる。

 

最近ツイッターでも言っていたことで、彼女が欲しくないわけでも性欲が無いわけでもないけど、自分と付き合うようになる人は可哀想だと感じてしまう。

世間一般で異性と付き合う人は相手に何を好いてもらえると思っているのかわからない、ということ。

 

簡単に言えば自分への評価が低すぎるということ。

例えば、今年卒論を書いている時も先生、先輩、同期、後輩といろんな人から褒めてもらった。でも自分は素直に受け取れず、「いや、まだ全然です」と答えていた。また、先輩に大学院への進学をすすめられた時も、「自分は多分ダメなので…」と返していた(らしい)

自分では自分の能力を客観的に評価したうえで正当な返しをしているつもりであるが、周りからはそれが謙遜に見えてしまい、あまりにも過剰なので卑屈に見られてしまっていた(らしい)

要は自分に厳しすぎる、ということだろうか。

 

実は過去にカウンセリングを受けたことがあって、その時も完璧主義者的なところがあって自己評価が低いとやんわりと伝えられてことがある。それが軽く自己中心的でもあると。

 

じゃあ自信を持てば改善するのか?

一般的に成功体験がその人を支えているという言説がある。でも自分はそうは思わない。なぜなら今の自分は失敗体験しか思い起こせないからだ。

自分は過去に学校生活からも恋愛経験からも一度失敗した人間だから。

話を戻すとそういう過去の失敗体験が自分の生き方にも根強く影響しているため、どうやら自分の恋愛観がズレてしまっていたらしい。

 

もう一つ違う角度から考えてみる。

例えば一般的に付き合うとなると、「相手を幸せにしてやる」という気持ちが生まれる(らしい)

でもそれはあまりにも綺麗事過ぎやしないだろうか?

究極的に言えばその根底には性欲があるはず。

生物としては当たり前のことであるが、それを綺麗事で包み隠してしまう感覚があまりにも気持ち悪く感じる。

もちろん性欲と恋愛感情が別であるということは理解している。しかし結局のところ行き着く先は同じで「相手」が対象になるだろう。

極端に単純化して言えば

「付き合ってください」≒「セックスさせてください」

だろう。

 

自分は一度ドロップアウトした人間だからそのように見えるのだろうか。

決して自分が嫌いというわけではない、むしろナルシズムの気すらあるように思う。

しかし他人から見た自分というのは全く違う。そのように考えたとき、自分と付き合うメリットが何一つない、と客観的に評価する。

だから自分と付き合う相手は可哀想なのだ。

生きづらい社会とエネルギー

池上彰上田紀行中島岳志、弓山達也『平成論 「生きづらさ」の30年を考える』(NHK出版新書、2018)書評にかえて

時代が変わる、ということはどういうことだろうか。少なくとも個人は昨日今日明日と変わらない一本の道の上に立っている。とすると時代が変わるというのは社会全体の変化を意味するのだろう。

平成生まれの自分には想像つかない時代の変化だ。以前母に昭和天皇崩御の日について尋ねたことがある。
母「どのチャンネルも同じニュースでビデオ借りて見てた。」
そういうことが聞きたいわけじゃねえ。

閑話休題


歴史学的にみれば時代の変化というのは下部構造と上部構造の関係から生まれる。例えば日本の古代から中世の変化は古代都市領主と中世在地領主の闘争でよく説明される。

マルクスの威信は地に堕ちても、なおその理論は一部残存している。
マルクスを信用しているわけではないが、一部には賛同できる箇所がある。

それは、社会を変化させるには「エネルギー」が必要ということだ。
当たり前のように聞こえるかもしれないが、これはどの時代でも不変であると思う。

戦後日本に限ってみても復興、経済成長、安保闘争、大学闘争と人々は何かを信じてエネルギーを投資してきた。

重要なのはこれらのエネルギーはみな「負の抑圧」から生まれた、ということ

例を挙げると、バネが上から押さえられている状況がわかりやすいかもしれない。手を離すと、バネはもとに戻ろうとして一気にエネルギーを放出する。あれに似ている。

『平成論』のタイトルにもある「生きづらさ」とは何か。
思うに「抑圧されていることに気が付いていない」状況のことではないか。
本書では抑圧から自由になる為の、役割として宗教が位置付けられていた。

しかし、(残念なことに?)これは一部の人たちだ。今や閉塞感は社会全体を覆っている。

ではその社会の大多数の抑圧されたエネルギーはどこへ向かうのだろうか。
先日、ハロウィンで渋谷に集まった人々が一部暴徒化する騒動が起きた。あの事件もある意味溜まっているエネルギーが少し表出したものだと見ることもできる。
今後もこのような事態は起きうることだろう。


かつて保守派がマルクス主義革命を恐れたような例ではないが、私は少し危機感を覚えた。
今抑圧されているエネルギーはどこへ向かうのだろうか、もしかしたらエネルギーはもう限界まで溜まっているのではないか、と。

もうすぐ平成が終わる。
何が起きてもおかしくない状況が整っててしまっている。

回想日記

この頃よく昔のことを思い出す。

しかも女の子のこと。

 

例えば

小学生の時、仲良かった女の子から「笑い方がキモイ」と言われた。

自分は心の底から笑う時、引き笑い気味になっていた。

それ以来、折に触れてその言葉を思い出す。急速に感情が冷めて、心からの笑いはそれ以来できなくなったように思う。

 

中学生の時、違う女の子から「何を考えてるかわからない」と言われた。

確かに自分はよくうつろな目をしていたと思う。人間関係に疎くてクラス内で派閥に所属することがなかった。自分が他から見ると不気味な存在だったと気が付いたのは最近の事だ。

 

中学の時付き合ってた子から「いつも遠くを見ているね」と言われた。

早く家から出たい、この村から出たいと思っていたからだと思う。結局この子との縁は進学を機に自然消滅した。

 

高校の時付き合ってた子から「一緒にいて楽しくない」と言われた。

文化祭の日に自分なりに精一杯楽しませようとしていた。それが全部空回りに終わったことがとてもショックで、半年ぐらい女の子と話をすることができなくなった。

 

大学に入ってから仲良くなった子に「変わっている」と言われた。

自分がズレていると直接言われたことが衝撃だった。だって自分は普通のつもりだったから。

 

 

こうして考えると女の子が苦手になっても仕方ないと思う。あと自分は結構繊細で傷つきやすいんだなあと思った。

 

おしり

○○「を」教える、○○「で」教える

考えたことのメモ

例によって本のこと。
自分は教育学部に所属していて、タイトルのような言葉をよく聞く。つまりは「教科書を教える」「教科書で教える」という授業構成の違い、授業における教科書の役割を端的に示した言葉。

(教育についての是非みたいなものは今回の主旨と大きく隔たってしまうため、省かせてもらう。)

この言葉の"教科書"の部分は"小説"もしくは"ストーリー"に置き換えて考えるとちょっと面白い。
もしかしたら純文学と大衆小説との区分の手掛かりになるかもしれない。

「小説を教える」「小説で教える」

若干の違和感はあるね。本質はそこじゃないけど。

前者の「小説を教える」。これは面白い(interesting的な意味での)お話を小説という形式にする、というもの。

こういう面白い話がありますよ。こういう面白いお話を考えましたよ。

この場合に当てはまるのはSF小説推理小説、時代小説だろうか。例えばSF小説で人間心理に迫ろうとしても、SF小説という枠組みが前提のために、それはどこまで行っても仮想である。


それに対して「小説で教える」。
何か説教臭さを感じてしまうが、そういった側面もあることは否定しない。
学校の国語の試験の「この時の心情を答えなさい。」とは少し違うかもしれない。

あるお話があります(その面白さは問わない)、そういった話から人間とはこういうものです。あるいは恋愛とはこういうものです。

という一般化が為されているものが、これに当てはまる。
この場合なるべくノンフィクションか、それに準ずるものが好ましいと思う。
説得力があるし、何より一般化されているため心象風景がリアルに立ち現れてくる。
私小説や恋愛小説が当てはまるだろうか。恋愛小説は微妙か。


純文学と大衆小説の区分でよく言われるのが、純文学はそれ自体が芸術足り得るもの、大衆小説はそれ以外という分類。

自分の考え方は純文学は真善美を追求するもの、だと考えている。どちらかというと哲学に近い。
哲学が世界の秩序や人間そのものを解明しようとした様に、ものの有り方、秩序を追求するものが純文学だろうと。

つまり純文学は一般化されてなければならない。

そういう意味では「小説を教える」が大衆小説で、「小説で教える」が純文学になるのかな。


さて、最近のラノベにあまり惹かれない、というのが僕の最近の愚痴なのだけれども、それはここにも繋がるのかもしれない。

最近のラノベはビジュアルや個人の趣味嗜好「萌え」が中心的で、話はそれに付随しているだけ。それを好む人は話が好きなのではなくて、その「萌え」が動いているのが好きなのだろう。
人形遊びと何ら変わりはない。


僕が面白いと思うのは、人間と人間の相互作用が現れる場所。
有り体に言えば「化学反応」だろう。
その化学反応の結果、人間とはこういうものだ、というアプローチが欲しい。


結論、「哲学的意味はありますか?」

Nona Reeves入門のための10曲

https://youtu.be/Yg7tLrRlL_w

youtu.be

↑最新アルバム。最高なので買いましょう。

 

あとリンクは貼りません。ガチファンなので。

 

1,Love Together

 知名度の高さから選曲。アニメパラッパラッパーのOP曲。ライブではめっちゃ盛り上がる。

 

2,DJ!DJ!~とどかぬ想い~@Feat.YOU THE ROCK★

 これもニコニコを中心に有名な曲。

 

3,透明ガール

 ノーナの中ではかなり人気が高い曲。爽やかさではナンバーワンかもしれない

 

4,夢の恋人

 これは是非PVで見てほしい。めっちゃカッコいい。

 

5,ヴァンパイア・ブギーナイツ

 最新アルバムからの選曲。これをアルバム1曲目に持ってきたのは大成功だと思う。

 

6,麗しのブロンディ

 これも最新アルバムから。ピアノ+西寺兄貴のイントロでグッと引き込まれる。

 

7,君はザナドゥ

 これを入門に持ってくるのはどうなんだ?という声が上がりそうだがぜひ聴いてみてほしい。普段メインボーカルの西寺兄貴ではなく、オッケンの歌声に注目してほしい。

 

8,休もう、ONCE MORE

 この曲はちょっと疲れた時に聴くと泣きそうになる。

 

9,二十歳の夏

 盛り上がり大好き。余韻まで大好き。

 

10,Weee Like It!!!

 「いつかくるさよならも愛せるように君と駆け抜けよう」って歌詞が大好き。

 

 

 

以上10曲です。入門なので知名度と曲のキャッチ―さで選びました。ノーナはの曲はバックボーンがしっかりしていて素晴らしいカバー曲も多く、また西寺兄貴だけでなく奥田兄貴、小松兄貴がメインボーカルの曲(狛犬の詩、N.e.g.a.t.i.v.e.b.o.yなど)も遜色ないほど良い曲なんですよ。

 あと洋楽に詳しい人が聴いたらまずハマると思います。自分はマイケル・ジャクソン、ワム、クイーン、アースウィンド&ファイアとかが大好きなので速攻でハマりました。

 

【閲覧注意】さよならの朝に〜【感想】

めっちゃ久し振りの更新
最近は就活でバタバタしていましたが、中休み(?)に映画を見に行きました。(公式略称は「さよ朝」なので以下はそれを用います。)

映画はブログタイトルの通り

見に行こうと思った切欠は前述の通りなんですが、何回かYouTubeで宣伝してるのを見て興味を持ちました。というか前情報はそれぐらいでした。
宣伝を見る限りでは「愛してはいけない」と言っていたので恋愛系の映画なのかな〜、ぐらいに考えてました。本当にそれだけ。
実際観ると「あ、そっちかぁ」ってなりましたけど。

閑話休題

あまり長く書くのも面倒なので個人的に重要だと思ったポイントを絞って書いていきます。


※ネタバレになると思うので、それが嫌な方はブラウザバックしてください。自己責任でお願いします。


○縦の糸はあなた、横の糸はわたし

縦糸と横糸からどうしても連想してしまう中島みゆき
彼女の歌は逢うべき糸に出逢えることを幸せと呼びました。
ではこの作品では、というと、そのまま縦糸(経)と横糸(緯)。つまり彼らの経緯を示していたと思います。
彼らにとっては生き様そのものでした。そして誰かを愛することはまた独りを呼び込むこと。さよならだけが人生だ、というような悲観的と言うべき価値観。
そして布にみえた糸のほつれ……という何かを予感させる意味深長な導入でした。

○2人、あるいは3人
個人的な話ですが、自分はこういうファンタジー要素のある話(お伽噺のような)を理解するのに苦労するタイプなのですが、この作品はスッと頭に入ってきました。
それは何故かというと、彼らの生きざまという明確な対比があり、それがそのまま時間軸に沿って描写されていたからだと思います。
さて簡単に彼女らの生きざまの対比と言いましたが、厳密にはいくつかの対立軸があったように感じました。
まずは大枠で捉えると、人間とイオルフの違い。レイリアとイゾル(あやふや)の話にありましたが、イオルフは幻想的な存在、いわばお伽噺の世界の存在であるのに対し、彼らが交錯する人の世界はどこまでもエゴに満ち溢れて独善的な世界でした。そしてその犠牲になったのがイオルフの3人であると。
2つ目の対立軸はその3人の生きざま、時間の流れの違いです。
作中で「時計の針」という表現がありました。それを引用すると、マキアは切欠はともかく自ら時計の針を動かそうとし、レイリアは強引に時計の針を進まされ、クリムは時計の針を止めたままであろうとした。過去に固執するクリムは従来のイオルフの生き方そのもので悲劇の一番の被害者でした。心中お察ししますって感じでした。そして進め方は違えど未来(といって良いのか)を志向するようになったのはマキアとレイリア。
3つ目の対立軸はマキアとレイリアという「母」としての違いでした。マキアは実子では無いもののエリアルの母としてエリアルのことだけを考えて強くあろうとし、それに対してレイリアは望まないはずの実子を唯一の拠り所と考えるもそれが叶わない不安定な母として描かれていたように感じました。
どちらも拠り所を「子」にしていたというのは面白かったですね。でも冷静に考えると母ってそういうものなのかな。作中でもいろんな母子が登場しましたが、子を思う気持ちの存在は変わらないという。

エリアルの人生

エリアルは人間の、特別ではない普通の男の子として描かれていました。エディプスコンプレックス、反抗期と時を経て、大人になり、誰かを愛し、子どもが生まれ、そして死へ向かう……。
その「普通」の男の子に「普通」ではないマキアが関わるとどのような化学反応が起きるのかというのが見所の一つだと思いました。正直cv担当の方からも「普通の男の子」というのが連想されましたね。KH3楽しみです。

○ヒビオル
ヒビオル(布)で言葉を伝えるというのはなかなかユニークだと思いました。昔の人々は宇宙の成り立ちを数や音楽で捉えようとしたようにヒビオルがかれらの世界、宇宙だったのかもしれません。

○無垢と汚れ

これは最初に書くべきなのかもしれませんが、イオルフの人々は無垢な存在として描かれていました。子ども同然の風貌はその無垢さを表現していたのだと思います。彼らのブロンド(あるいは白?)の髪もその表現に一役買っていました。
その無垢な彼らが人の世界と交錯し、汚されていきます。マキアが奇異な目で見られるのを避けるために髪を染め、レイリアはエゴによって額面通りの意味で汚されました。レイリアが自分のお腹に触れるシーンが2箇所ぐらいあったと思うんですが、かなり生々しくてエグいな……、と感じました。それは本来のイオルフという存在とのギャップがあったからかもしれませんね。エグい、と言えば死後硬直や犬の死もかなりリアリティに描かれていたのもそうですね。
人間の世界と交錯し、汚されていく(あるいは様々な感情を得る)彼女らでした。それでも、長命の彼女らにとっては本の一部に過ぎないかもしれないけど、その世界の汚さを知ってもなお、明日が訪れる世界を美しいと思える、そんなお話でした。

実は上映前に時間があったので、本当に偶々カポーティティファニーで朝食を』(村上春樹訳)を読んでいたのですがその作品のホリーもどこまでもイノセントな存在として描かれていましたね。だからどうという訳では無いですが……。




感想や思ったことはこんなものだと思います。
結構すぐに感情とか忘れちゃうから今回書こうと思った次第であります。
あといくつか気になった点を箇条書きして終わりたいと思います。
○全体を通して
・声優のキャスティングは素晴らしいの一言。違和感は感じられなかった。(長老役の沢城さんは凄みをましていましたね。自分の中では神原駿河のイメージだったので)
・音楽も良かったスタッフロールで流れたテーマ曲は余韻たっぷりに聴き入りました。
○作中での疑問
・イオルフの歴史について(普通に淘汰、同化されるでしょっていう感想)
・クリムはレイリアの目の前で殺されたはずなのになぜ生きていたのか(クライマックスでは普通に死んでたので異常に生命力が強いとは思えない)
・メザーテ滅亡の際に周辺国の乗っていた船が帆船だったこと。艦船まではいかなくても蒸気機関ぐらいあっても良さそうなもの。
・ディタの分娩がなぜ昔の日本式。もしかしたら布を前面に出したかったのかもしれないが。
・ドラゴンの赤目病はなんやねん、単に寿命か?

「そういう世界だから」で説明がつくのがファンタジーの強みですかね