ゆりかごから脳死まで(仮)

u18は素で間違えた(低学歴)

ざれごと(端書)

大仰な題名の割に薄っぺらい文章であることをまずお詫び致します。

 

「本質を見誤ってはならない」と子供のころから耳に胼胝ができるほど言い聞かされて来ましたが、誰も「本質」そのものを教えてはくれませんでした。

 

「本質とはなんですか。」

と子どもが聞くと、大人はわかったような素振りで

「自分で考えなさい。」

と決まった応え方をする。

これでは子どもがわからないのは当然であります。

加えて、誰も「本質」への考え方、そのプロセスを教えてくれません。

現代社会はこのように連綿と先送りされてきた解答が積もりに積もって出来ているのです。さらに、この答えは大人でさえも知らないのです。(もしかしたらただ考える暇もなく忙殺されているだけなのかもしれませんが)

 

「本質」は西洋では古代アテネ、東洋では孔子の昔から考えられてきました。多くの思想家の命題となり、また本質を「悟り」だとか「救済」だと考えた宗教は多くの人々の命を左右してきたという歴史もあります。

日本では森羅万象、あらゆるものごとに魂が宿るという考えが広くあるのはご存知の通りかと思います。

 

ところで日本の高校倫理科目で私たちは先人の考え方を学びますが、これは哲学ではなく、哲学史であることをまず理解しなければなりません。そのことを理解せず、先人の考え方を鵜呑みにして恰も自分の考えであるかのように述べるのは、傍から見ていて非常に滑稽に映るものであります。

先日、とある方が「人間の本質は悪だから、現代社会はこんなによくない方向へと動いているのだ」と仰っていました。確かに人間の本質は「悪」なのかもしれません。しかし、「性悪説」の本来の考えはその方が仰るそれとは大分かけ離れています。

このように、断片だけを論い、全てをわかったかのような道化が多く学校から社会へと流れてしまっているのです。これは日本の教育の責任であることは明らかです。

私たちが哲学史を学ぶのは「本質」への考え方、プロセスを学ぶためにあるのです。

 

教育の目的は均質で機械的な人間を作ることではありません。自分で考え、自分で判断できる人間を育てることです。その判断には勿論「道徳」だったり「本質」だったりが含まれています。

 

さて話を元に戻しましょう。

「本質とはなんですか。」に対する「自分で考えなさい。」という答えは一見正しいように思えます。というより実は正しい答えなのであります。

「自分で考える」人間を育てるのが教育の目的であると先ほど述べました。ではこのやり取りの何が「正しくない」のかと申しますと、それは中身が伴っていないからです。多くの場合「自分で考えなさい。」は答えているその人自身も実はわかっていないから、場当たり的な解答であるのです。

ここでいう中身とは考えのプロセスと置き換えても構いません。考え方も何もわからないままの子どもに「本質を考えろ」と言われてもできるはずがありません。

まるで五里四方の霧の中に張楷を探せというようなものです。

では、先の問いかけに対してどのように答えるのが、「良い」のでしょうか。自分で考えなさい、と言うのは投げやりな答えにも聞こえてしまいます。

私は「勉強して考えなさい。」が真っ当なように考えます。大人の教育とはかくも難しい。

 

閑話休題

 

今回、本質の話題を持ち出したのは2カ月くらい前にクリアしたゲームの感想やら考察を書こうとしたからです。

それが「潮風の消える海に」と「群青の空を越えて」の2作です。

 

なぜこの2作を並べて述べるのかというと、同じブランドの同じライターだからですね。

そしてなぜ「本質」の話を持ってきたのか。

これを述べさせていただきたいと思います。シナリオの概要やら考察やらは他の方の記事をご覧いただければと。

 

まず「潮風の消える海に」ですが、これはゴリゴリの恋愛モノです。ゴリゴリという表現が良くないのであれば、「王道の恋愛モノ」といいましょうか。

このシナリオで感じたことは、中々直截的な言葉が口にされないということです。

つまり「本質」であるところの登場人物の心情が言葉に現れないまま、話は進行していきます。やり取りされる言葉の水面下でどのような心情を抱いているのかと考えながらプレイすると、もどかしく、いじらしい少年少女たちの青春が浮かび上がってきます。

一周目ではそれに気付かず、ただ進めていましたが、ラストの盛り上がりで「種明かし」をされてから二周目に臨むと、なるほどと気付かされる場面が多くありました。

選択肢もなく、1ルートだけですので、初心者の方にお勧めできる一作です。

 

次いで「群青の空を越えて」ですが、こちらの方が多く引っかかる場面がありました。このシナリオは架空戦記モノです。正直エロがなくても読めるし、むしろその場面は省いても良かったのではと思わなくもなかったり。

 

自分が大きく引っかかったのは3か所。

一つは「君の為には死ねないよ」というセリフ。正直このセリフには度肝を抜かれました。アダルトゲームの恋愛話らしからぬセリフですよね。恋人より大事なものがあると、恋人本人の前で言ってしまうその神経だけでなく、ゲーム界全体としても異彩を放つセリフです。

 

二つ目はあるヒロインが「東日本、万歳」と言って死ぬ場面。また、同じように「その理想の世界を見てみたい」と考えて戦死した友人。

主人公の父親である一経済学者の理想に若者が多く殉じるという衝撃的な場面でした。ある種、妄信だったり狂信的といえる場面です。

私は弱冠二十歳であります。70数年前に国に殉じた若者は何を思っていたのか、何を思って死んでいったのか。知る由もありません。ただ、彼ら自身が大切に思うものや理想を想って死んでいったという浅はかな想像をするばかりです。

また歴史を学ぶものでもあります。その一員として、戦争はただ戦争であるだけで、悲しみも喜びも見出すことはありません。誰が善で誰が悪かという二元論で論じることもありません。戦争というものを概観し、過去の事実を事実として捉えるだけです。

しかし一人の人間として戦争を直観し、その是非を考えるならば、私は非を選択するでしょう。

話が逸れてしまいました。

 

最後に3つ目です。多くの感想にもあったようにこの話はグランドストーリーで主人公の演説で幕を閉じます。しかも「何のために戦うのか」という本質を述べないままで。

さて、最後の命題は宙に浮いたまま幕は閉じてしまいました。

これがこのゲームを異質たらしめている大きな要素であることは間違いありません。

 

戦争の本質とはなんでしょうか。階級闘争でしょうか、生存圏の獲得でしょうか、生物の適者生存・自然淘汰の本能でしょうか。

 

私は戦争の本質なんて無いというのが「本質」だと思っています。WW1にしてもWW2にしても誰があれ程までの犠牲や被害を予想したでしょうか。国同士の対立の理由は様々でありますが、個人が戦うという理由にはなかなかならないでしょう。

誰もが自分の理想にまた他人の理想に期待して戦うのです。そこに本質はありません。すべて人間の恣意性が表れているのです。しかもその恣意は人それぞれ違っています。このように戦争の「本質」は決まったものではなくただカオスであるのです。

これが戦争の「本質」であると考えました。

 

以上がゲームの考察になります。

私は本を読むことが好きです。しかし本を読むという行為が好きというわけではなく、本を読んで理解するというところまでが1セットになっています。

「本を読んだけど、内容は理解できなかった」なんてものは「読んだ」とは言えないと思っています。

「読む」ことの本質は「理解すること」だと考えています。とりわけ小説なんかでは著者の文体、表現、物語というすべてを包括して美酒に酔いしれ、その本質を味わうことが理想なのだと思います。

 

文の一節を取り上げて、うまいうまいと言うのはあまりに浅はな下戸ではないでしょうか。