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【閲覧注意】さよならの朝に〜【感想】

めっちゃ久し振りの更新
最近は就活でバタバタしていましたが、中休み(?)に映画を見に行きました。(公式略称は「さよ朝」なので以下はそれを用います。)

映画はブログタイトルの通り

見に行こうと思った切欠は前述の通りなんですが、何回かYouTubeで宣伝してるのを見て興味を持ちました。というか前情報はそれぐらいでした。
宣伝を見る限りでは「愛してはいけない」と言っていたので恋愛系の映画なのかな〜、ぐらいに考えてました。本当にそれだけ。
実際観ると「あ、そっちかぁ」ってなりましたけど。

閑話休題

あまり長く書くのも面倒なので個人的に重要だと思ったポイントを絞って書いていきます。


※ネタバレになると思うので、それが嫌な方はブラウザバックしてください。自己責任でお願いします。


○縦の糸はあなた、横の糸はわたし

縦糸と横糸からどうしても連想してしまう中島みゆき
彼女の歌は逢うべき糸に出逢えることを幸せと呼びました。
ではこの作品では、というと、そのまま縦糸(経)と横糸(緯)。つまり彼らの経緯を示していたと思います。
彼らにとっては生き様そのものでした。そして誰かを愛することはまた独りを呼び込むこと。さよならだけが人生だ、というような悲観的と言うべき価値観。
そして布にみえた糸のほつれ……という何かを予感させる意味深長な導入でした。

○2人、あるいは3人
個人的な話ですが、自分はこういうファンタジー要素のある話(お伽噺のような)を理解するのに苦労するタイプなのですが、この作品はスッと頭に入ってきました。
それは何故かというと、彼らの生きざまという明確な対比があり、それがそのまま時間軸に沿って描写されていたからだと思います。
さて簡単に彼女らの生きざまの対比と言いましたが、厳密にはいくつかの対立軸があったように感じました。
まずは大枠で捉えると、人間とイオルフの違い。レイリアとイゾル(あやふや)の話にありましたが、イオルフは幻想的な存在、いわばお伽噺の世界の存在であるのに対し、彼らが交錯する人の世界はどこまでもエゴに満ち溢れて独善的な世界でした。そしてその犠牲になったのがイオルフの3人であると。
2つ目の対立軸はその3人の生きざま、時間の流れの違いです。
作中で「時計の針」という表現がありました。それを引用すると、マキアは切欠はともかく自ら時計の針を動かそうとし、レイリアは強引に時計の針を進まされ、クリムは時計の針を止めたままであろうとした。過去に固執するクリムは従来のイオルフの生き方そのもので悲劇の一番の被害者でした。心中お察ししますって感じでした。そして進め方は違えど未来(といって良いのか)を志向するようになったのはマキアとレイリア。
3つ目の対立軸はマキアとレイリアという「母」としての違いでした。マキアは実子では無いもののエリアルの母としてエリアルのことだけを考えて強くあろうとし、それに対してレイリアは望まないはずの実子を唯一の拠り所と考えるもそれが叶わない不安定な母として描かれていたように感じました。
どちらも拠り所を「子」にしていたというのは面白かったですね。でも冷静に考えると母ってそういうものなのかな。作中でもいろんな母子が登場しましたが、子を思う気持ちの存在は変わらないという。

エリアルの人生

エリアルは人間の、特別ではない普通の男の子として描かれていました。エディプスコンプレックス、反抗期と時を経て、大人になり、誰かを愛し、子どもが生まれ、そして死へ向かう……。
その「普通」の男の子に「普通」ではないマキアが関わるとどのような化学反応が起きるのかというのが見所の一つだと思いました。正直cv担当の方からも「普通の男の子」というのが連想されましたね。KH3楽しみです。

○ヒビオル
ヒビオル(布)で言葉を伝えるというのはなかなかユニークだと思いました。昔の人々は宇宙の成り立ちを数や音楽で捉えようとしたようにヒビオルがかれらの世界、宇宙だったのかもしれません。

○無垢と汚れ

これは最初に書くべきなのかもしれませんが、イオルフの人々は無垢な存在として描かれていました。子ども同然の風貌はその無垢さを表現していたのだと思います。彼らのブロンド(あるいは白?)の髪もその表現に一役買っていました。
その無垢な彼らが人の世界と交錯し、汚されていきます。マキアが奇異な目で見られるのを避けるために髪を染め、レイリアはエゴによって額面通りの意味で汚されました。レイリアが自分のお腹に触れるシーンが2箇所ぐらいあったと思うんですが、かなり生々しくてエグいな……、と感じました。それは本来のイオルフという存在とのギャップがあったからかもしれませんね。エグい、と言えば死後硬直や犬の死もかなりリアリティに描かれていたのもそうですね。
人間の世界と交錯し、汚されていく(あるいは様々な感情を得る)彼女らでした。それでも、長命の彼女らにとっては本の一部に過ぎないかもしれないけど、その世界の汚さを知ってもなお、明日が訪れる世界を美しいと思える、そんなお話でした。

実は上映前に時間があったので、本当に偶々カポーティティファニーで朝食を』(村上春樹訳)を読んでいたのですがその作品のホリーもどこまでもイノセントな存在として描かれていましたね。だからどうという訳では無いですが……。




感想や思ったことはこんなものだと思います。
結構すぐに感情とか忘れちゃうから今回書こうと思った次第であります。
あといくつか気になった点を箇条書きして終わりたいと思います。
○全体を通して
・声優のキャスティングは素晴らしいの一言。違和感は感じられなかった。(長老役の沢城さんは凄みをましていましたね。自分の中では神原駿河のイメージだったので)
・音楽も良かったスタッフロールで流れたテーマ曲は余韻たっぷりに聴き入りました。
○作中での疑問
・イオルフの歴史について(普通に淘汰、同化されるでしょっていう感想)
・クリムはレイリアの目の前で殺されたはずなのになぜ生きていたのか(クライマックスでは普通に死んでたので異常に生命力が強いとは思えない)
・メザーテ滅亡の際に周辺国の乗っていた船が帆船だったこと。艦船まではいかなくても蒸気機関ぐらいあっても良さそうなもの。
・ディタの分娩がなぜ昔の日本式。もしかしたら布を前面に出したかったのかもしれないが。
・ドラゴンの赤目病はなんやねん、単に寿命か?

「そういう世界だから」で説明がつくのがファンタジーの強みですかね