○○「を」教える、○○「で」教える
考えたことのメモ
例によって本のこと。
自分は教育学部に所属していて、タイトルのような言葉をよく聞く。つまりは「教科書を教える」「教科書で教える」という授業構成の違い、授業における教科書の役割を端的に示した言葉。
(教育についての是非みたいなものは今回の主旨と大きく隔たってしまうため、省かせてもらう。)
この言葉の"教科書"の部分は"小説"もしくは"ストーリー"に置き換えて考えるとちょっと面白い。
もしかしたら純文学と大衆小説との区分の手掛かりになるかもしれない。
「小説を教える」「小説で教える」
若干の違和感はあるね。本質はそこじゃないけど。
前者の「小説を教える」。これは面白い(interesting的な意味での)お話を小説という形式にする、というもの。
こういう面白い話がありますよ。こういう面白いお話を考えましたよ。
この場合に当てはまるのはSF小説、推理小説、時代小説だろうか。例えばSF小説で人間心理に迫ろうとしても、SF小説という枠組みが前提のために、それはどこまで行っても仮想である。
それに対して「小説で教える」。
何か説教臭さを感じてしまうが、そういった側面もあることは否定しない。
学校の国語の試験の「この時の心情を答えなさい。」とは少し違うかもしれない。
あるお話があります(その面白さは問わない)、そういった話から人間とはこういうものです。あるいは恋愛とはこういうものです。
という一般化が為されているものが、これに当てはまる。
この場合なるべくノンフィクションか、それに準ずるものが好ましいと思う。
説得力があるし、何より一般化されているため心象風景がリアルに立ち現れてくる。
私小説や恋愛小説が当てはまるだろうか。恋愛小説は微妙か。
純文学と大衆小説の区分でよく言われるのが、純文学はそれ自体が芸術足り得るもの、大衆小説はそれ以外という分類。
自分の考え方は純文学は真善美を追求するもの、だと考えている。どちらかというと哲学に近い。
哲学が世界の秩序や人間そのものを解明しようとした様に、ものの有り方、秩序を追求するものが純文学だろうと。
つまり純文学は一般化されてなければならない。
そういう意味では「小説を教える」が大衆小説で、「小説で教える」が純文学になるのかな。
さて、最近のラノベにあまり惹かれない、というのが僕の最近の愚痴なのだけれども、それはここにも繋がるのかもしれない。
最近のラノベはビジュアルや個人の趣味嗜好「萌え」が中心的で、話はそれに付随しているだけ。それを好む人は話が好きなのではなくて、その「萌え」が動いているのが好きなのだろう。
人形遊びと何ら変わりはない。
僕が面白いと思うのは、人間と人間の相互作用が現れる場所。
有り体に言えば「化学反応」だろう。
その化学反応の結果、人間とはこういうものだ、というアプローチが欲しい。
結論、「哲学的意味はありますか?」