ゆりかごから脳死まで(仮)

u18は素で間違えた(低学歴)

生きづらい社会とエネルギー

池上彰上田紀行中島岳志、弓山達也『平成論 「生きづらさ」の30年を考える』(NHK出版新書、2018)書評にかえて

時代が変わる、ということはどういうことだろうか。少なくとも個人は昨日今日明日と変わらない一本の道の上に立っている。とすると時代が変わるというのは社会全体の変化を意味するのだろう。

平成生まれの自分には想像つかない時代の変化だ。以前母に昭和天皇崩御の日について尋ねたことがある。
母「どのチャンネルも同じニュースでビデオ借りて見てた。」
そういうことが聞きたいわけじゃねえ。

閑話休題


歴史学的にみれば時代の変化というのは下部構造と上部構造の関係から生まれる。例えば日本の古代から中世の変化は古代都市領主と中世在地領主の闘争でよく説明される。

マルクスの威信は地に堕ちても、なおその理論は一部残存している。
マルクスを信用しているわけではないが、一部には賛同できる箇所がある。

それは、社会を変化させるには「エネルギー」が必要ということだ。
当たり前のように聞こえるかもしれないが、これはどの時代でも不変であると思う。

戦後日本に限ってみても復興、経済成長、安保闘争、大学闘争と人々は何かを信じてエネルギーを投資してきた。

重要なのはこれらのエネルギーはみな「負の抑圧」から生まれた、ということ

例を挙げると、バネが上から押さえられている状況がわかりやすいかもしれない。手を離すと、バネはもとに戻ろうとして一気にエネルギーを放出する。あれに似ている。

『平成論』のタイトルにもある「生きづらさ」とは何か。
思うに「抑圧されていることに気が付いていない」状況のことではないか。
本書では抑圧から自由になる為の、役割として宗教が位置付けられていた。

しかし、(残念なことに?)これは一部の人たちだ。今や閉塞感は社会全体を覆っている。

ではその社会の大多数の抑圧されたエネルギーはどこへ向かうのだろうか。
先日、ハロウィンで渋谷に集まった人々が一部暴徒化する騒動が起きた。あの事件もある意味溜まっているエネルギーが少し表出したものだと見ることもできる。
今後もこのような事態は起きうることだろう。


かつて保守派がマルクス主義革命を恐れたような例ではないが、私は少し危機感を覚えた。
今抑圧されているエネルギーはどこへ向かうのだろうか、もしかしたらエネルギーはもう限界まで溜まっているのではないか、と。

もうすぐ平成が終わる。
何が起きてもおかしくない状況が整っててしまっている。